フリーレンが始まる
葬送のフリーレンのSeason2が明日から放送される。自分がまず気に入ったのは以下の点。
「後日譚(アフター)」を物語の起点にする独創性
多くのファンタジーが「打倒・魔王」をゴール(目的)とするのに対し、本作はそれを前提(歴史)に変えました。
これは「勇者物語」の脱構築になっている。読者は、輝かしい伝説の裏側にある「その後の人生」や「忘れ去られていく記憶」という、より人間的で切実なテーマに向き合わされている。
魔族の残党」という政治的・歴史的リアリティ
「独裁者を倒しても世界はすぐには変わらない」という視点は、従来のRPG的ファンタジーでは、魔王は「諸悪の根源」であり、彼を倒せばシステム的に平和が訪れます。しかし、『フリーレン』における魔族は、単なる悪の象徴ではなく「相容れない生態系」として描かれている。
歴史を振り返れば、巨大な権力が崩壊した後は必ず「力の空白」が生まれ、内戦や残党勢力との泥沼の紛争が続きます。ファンタジーの皮を被りながら、極めて現実的な「戦後処理の難しさ」を描いているように思います。
物語が進むともっといろいろなことに気付かされます。
アニメではSeason1のエピソードですが、腐敗の賢老クヴァールのエピソードは、まさに『葬送のフリーレン』における「人間賛歌」の真髄だと思っている。
「人間の進歩」という名の残酷な武器
クヴァールの放った「人を殺す魔法(ゾルトラーク)」が、数十年後には「一般攻撃魔法」として防御魔法の基礎にすら組み込まれていた。これは、人間という種族の最大の武器が「研鑽と継承」であることを示している。
個は弱いが、集団は強い: 一人の人間(クヴァールに敗れた人々)は弱くても、その死を無駄にせず、解析し、対策を立て、次世代へ共有する。
フリーレンは長寿ゆえに「停滞」しがちですが、ヒンメルたちとの旅を経て、「人間の短くも激しい進歩」を肯定する側になりました。
なぜ魔族は「成長」しないのか?
あなたが感じた「魔物(魔族)も成長しないかという不思議」は、この作品の設定の根幹に関わっている。これにはいくつかの理由が考えらえる。
「個」の完結: 魔族は基本的に単独行動であり、他者に教えを乞うたり、技術を共有したりする文化がない。クヴァールが解析される一方で、他の魔族が彼の魔法をより洗練させて人間に備えさせなかったのは、彼らが「協力」できない種族だからです。
「言葉」という罠: 魔族にとって魔法や言葉は、人間を欺き、捕食するための「手段」に過ぎません。アウラもそうですが、彼らは数百年を「強大な魔力を積み上げる」ことに費やします。それは「量的拡大」であって、人間のような「質的変革」ではないのです。
人間が「弱さを補うために知恵を絞る」のに対し、魔族は「もともと強いので、今のやり方を変える必要がない」という傲慢さに縛られている。
単純に観ているだけでも面白いのだけど、上記に書いたのはほんの少しだけどいろいろ考えるテーマをくれる作品は面白い。

